焼き物に行き着くまで①

そもそも自分の感情を言葉で表現するのが苦手な私は、
自分の感情を素直に表現できる場所は、子どもの時から絵を描く事だった。



小学生時代はマンガの絵を真似してみたり、
動物の絵を模写したり、絵を描くのが日常だった。
机の引き出しは、父が職場からもらってきてくれた白いコピー用紙でいっぱいだった。

(印刷で出た余分なコピー用紙)

 


学校から帰ってきて友達と遊ばない日は、すぐに自分の机に向かって、
宿題は後回しで好きな絵ばかりを描いていた。
(残念ながら勉強には全く興味が持てなかった)

 


中学生からは部活動も始まり、あんなに描くのが日常だったはずの絵を、ぱったりと辞めてしまった。
そのかわりに、私の頭の中はその頃流行っていた音楽でいっぱいとなり、
意図も簡単に絵から音楽にシフトしていった。

(この当時はモンゴル800などのバンドブームだった)


そんな感じのまま高校生活を送り、その次の進路は音響系の音楽の専門学校へと進学する。

入学し一年経つと、あっという間に就職活動時期が近づく。

一般企業への面接をいくつかしたが、

今思うと両親には凄く申し訳ないが、

「自分の進みたい人生はこっちではない」と明らかに確信だけはあった。

 

 

ある時、専門学校でニューヨークのバンド「Yeah Yeah Yeahs 」のライブ映像を見る授業?があった。

https://youtu.be/F-v75E9zxUs

 

 

私はこのバンドのフロントマン、カレンOの刺激的なパフォーマンス、ファッション、楽器はギターとドラムのみなのだが、全てが新しく感じ衝撃を受けた。

(ちなみにカレンOは映画「her」でthe moon songという曲を提供している)

 

これは音楽というより、アートだと思った。

 

そこから、やはりもう一度美術の勉強をしたいという思いに変わっていった。

 

 

その頃は絵なんてすっかり描くことはなくなっていて、

もはや忘れていたのだが、心の片隅で静かに眠っていた物が、この時目覚めたのだ。

 

 

さてここからどうしようかと考え、

とりあえず就職をして、自分で美大の通信に行こうと初めは思いついた。

しかし、それを母に話すと「通信を受けた所で物にならない」ハッキリと言われ、どうしようかと途方に暮れた。

 

 

そこでそんな母から助言があった。

通信に行くぐらいだったら、佐賀県の有田で焼き物の学校があると。

そして県立なので学費は安い。

知り合いの子供が行っていたと。

 

 

「陶芸???」

頭に中でハテナ?が広がり、パンフレットをまず取り寄せる。

私は今の状況を変えて、何か作れるのだったら何でもいいという心境で、これも何かの縁だと思う事にした。

 

 

これが始まりだった。

 

 

焼き物の知識も何にも知らずに学校に入学した。(陶器と磁器の違いすら分からなかった)

両親は知らない方が案外いい事もあると私を押してくれた。

 

 

初めて焼き物に触れたのは、実は小学校1年生の子ども会での陶芸体験だった。

3年生くらいの時も陶芸体験が子ども会であったのだが、印象はむしろ最悪だった。

 

「これは私の手におえん」

 

心の中でモヤモヤした感情でいっぱいになり、言うことを聞かない粘土に、言うことを聞かせようと土を乗せると、どんどん形が崩れていくばかりだった。

(他の子の方が明らかに上手だった)

 

「絵なら楽しくできるのに、これは私に向いてない」

子どもながらに激しくそう思った。

 

そして焼き上がった作品が自分の元へ届く。

 

「ん?!なんだこの色?」

 

それはそれは渋い、おじさんの好きそうな土肌が見える緑(灰釉)に焼きあがって、私の手元に到着したのであった。

(むしろおじいちゃんの湯のみ?っていうくらいの渋さ)

 

子どもだったので、綺麗な可愛い色を期待していた私は、全てにガッカリしたのであった。

 

 

こんな最悪な印象だった焼き物が、

今の自分と繋がっているなんて、とても不思議な気持ちでいっぱいだ。

そして焼き物を始めて、あっという間に10年もたってしまった。

 

 

いくら頭で考えても、自分の未来は想像を超えていく。

 

今は焼き物と出会えた事に本当に感謝している。

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